[2025_01_23_05]共感と連帯の安全保障を 被爆者の声に耳傾けよう ドイツでは戦争被害の市民に国家が補償 河合公明(長崎大教授)(東京新聞2025年1月23日)
 
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共感と連帯の安全保障を 被爆者の声に耳傾けよう ドイツでは戦争被害の市民に国家が補償 河合公明(長崎大教授)

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◎ 昨年12月のノーベル平和賞受賞演説で、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の田中煕巳さんは、日本政府が原爆被害に対する国家補償をいまだ行っていないと厳しく指摘した。
 草稿に元々なかった言及には「戦争と国民の犠牲との関係」を巡る深い間いかけが込められていた。
 田中さんは「世界に向けて戦争を作らないようにという思いを込めた言葉だった」と振り返っている。
 なぜ被爆者への国家補償がなされてこなかったのか。それは、戦争被害は等しく国民が「受忍」すべきとする発想が政策の根底にあったからだ。この発想を改め、政府が被爆者に「償う」姿勢を示すことは、戦争被害の問題に向き合う第一歩である。

◎ 田中さんの発言は、単に日本に向けられたものではなく、国際社会に対する間いかけでもある。
 それは、戦後・被爆80年という節目に、核兵器や戦争の間題にどう向き合うかについて考える機会を与えてくれる。
 国際法は、国際社会の価値観を反映しながら発展してきた。20世紀に起きた2度の世界大戦の反省から、国際社会は武力行使を禁じ、国際紛争の平和的解決を約東した。他国から武力攻撃を受けた場合のみ、例外として自衛権の行使が認められるが、その場合も攻撃対象は軍事目標に限定される。一般市民を意図的に攻撃することは、厳しく禁じられているのだ。
 しかし、ウクライナや中東での武力紛争に見られるように、多くの一般市民が犠牲となっている。戦争の結果として生じる民間人被害が、一定限度、法的に許容されている現実がある。これが現代の国際法の限界なのだ。

◎ これに対し被爆者は自らの体験を通じ、一般市民にとっての戦争という現実を間い続けてきた。被爆者は、「きのこ雲の下で何が起きていたのか」を語り続けてきた。その本質的な意義は、核兵器廃絶の訴えのみならず、「戦争で最も苦しむのは誰か」を間うている点にある。
 被爆者は、「攻撃する側」の論理ではなく「攻撃される側」の現実を考えることを求めてきた。

◎ もし、戦争被害を受けた一般市民に対する補償を国家に義務づける仕組みがあればどうか。戦争を始める国家にとって、そのコストは格段に上がる。
 ドイツでは、第2次大戦後、一般市民への補償の仕組みが整えられた。
 戦争被害に対する補償という考え方が国際的に広がれば、戦争への抑止力にもなり得る。
 「戦争と国民の犠牲との関係」を間うた田中さんの演説には、核使用が深刻に懸念される現況下、武力行使が違法化された現代にふさわしい国家の振る舞いと国際法の発展を求める歴史的意義がある。

◎ 「ノーモア・ヒバクシャ」「ノーモア・ウォー」という叫びは、力と不信に基づく安全保障の限界を超え、共感と連帯に基づく安全保障の形を求めるメッセージなのだ。
 戦後・被爆80年が新たな戦前とならないよう、被爆者の声に改めて耳を傾ける必要がある。
(1月23日「東京新聞」夕刊3面より)
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