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[2024_07_26_07]島民600名が逃げ出した…薩摩南方の島で起こった「西之島や福徳岡ノ場噴火をも超える」大噴火と、わずか「4ヶ月ほどで出現した」新たな島_前野深(現代ビジネス2024年7月26日) | ![]() |
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04:00 新たな火山島の出現は、島を知り地球を知る研究材料の宝庫。できたての島でなくては見ることのできない事象や、そこから伝わってくる地球のダイナミズムがあります。そして、地球に生まれた島は、どのような生涯をたどるのか、新たな疑問や期待も感じさせられます。 今まさに活動中の西之島をはじめ、多くの島の上陸調査も行ってきた著者が、国内外の特徴的な島について噴火や成長の過程での地質現象を詳しく解説した書籍『島はどうしてできるのか』が、大きな注目を集めています。 ここでは、実際に現場を見てきた著者ならではの、体験や研究結果をご紹介していきましょう。今回は、大規模な噴火を繰り返している海底カルデラ「鬼界(きかい)カルデラ」の北側を構成している薩摩硫黄島と、その火山活動によって出現した「昭和硫黄島」を取り上げます。 【書影】 島はどうしてできるのか・帯 ※この記事は、『島はどうしてできるのか』の内容を再構成・再編集してお届けします。 目の前で、噴火がはじまり、島ができはじめたら… いつも眺めている身近な海で火山噴火がはじまり、目前で島が成長していく様子を想像できるだろうか? 拙著『島はどうしてできるのか』では、西之島や福徳岡ノ場など、近年の噴火を例に火山島誕生や軽石漂流の話題を取り上げ、この記事シリーズでも、ここ10年近くの西之島の活動の経緯をご紹介した。 ただ、これらはいずれも絶海の孤島や海底火山で起きた噴火であるため、身近で同様の現象が発生した場合に何が起こるのか実感を持つことは難しいかもしれない。しかし過去を振り返ると人間社会の傍らで海底噴火が起き、周囲にさまざまな影響を及ぼした事例を見出すことができる。 本稿ではそのような例の一つとして、新たな火山島を形成した昭和硫黄島の海底噴火を取り上げる。戦前の激動と混乱の時代の中起きた噴火だが、当時このできごとを克明に記録した人々がいた。その記録と、著者自身が行った上陸調査をもとに、この噴火で何が起きたのかを探っていこう。 平安末の悲劇の舞台となった火山島 九州本土薩摩半島南端から50kmにある鹿児島県三島村の硫黄島(薩摩硫黄島)。数十万年前という遥か昔より大規模な噴火を繰り返している海底カルデラ「鬼界(きかい)カルデラ」の北側を構成しているのがこの薩摩硫黄島と隣の竹島で、海面上に飛びだし、頂きをなしている。 【地図】薩摩硫黄島の位置薩摩硫黄島の位置と、鬼界カルデラの海底地形図。カルデラの外輪である薩摩硫黄島の東にあるのが、本稿で取り上げる昭和硫黄島。(拡大地図は国土地理院をもとに作成、海底地形図は海洋情報研究センターのM7008 ver. 2.3( 南海域)に基づき作成。地形図の拡大表示は こちら ) NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台となる時代、平安末期に起こった平家打倒の未遂クーデター、鹿ヶ谷事件(ししがたにじけん。鹿ヶ谷の陰謀とも、1177年)において首謀者である村上源氏出身の僧、俊寛(しゅんかん)らが流された鬼界ヶ島はこの薩摩硫黄島と考えられている。 近づき難い様相の主峰 俊寛らが配流された当時から「主峰は噴煙をあげ、海は硫黄に染まる」と言われたように、島の東側に聳(そび)える硫黄岳の山頂や山腹では活発な噴気活動が長く継続している。その山容はまるで山全体が焼かれているようだ。麓からは変色水も湧き出し続け、近づき難い様相を呈している。 【写真】 島の鉄分を含んだ湧水で、港内は茶色くなっている薩摩硫黄島港薩摩硫黄島の硫黄港。島の鉄分を含んだ湧水で、港内は茶色くなっている photo by Kaiheki Kaiheki 近年は大きな噴火はないが、小規模な水蒸気爆発により火山灰を飛散させることがあり、活動の活発化が懸念されている火山でもある。気象庁による常時観測火山で、2024年3月の時点で噴火警戒レベルは2(火口周辺規制)となっている。 現在は百数十人となった人口だが、かつては硫黄や珪石の採掘が盛んで、最盛期には1400人ほどがこの島に住んでいた。この薩摩硫黄島の傍らに、海底火山の活動の末、突如として新島が出現したのだ。 1934年の噴火経緯 1934年9月も半ばに差し掛かる頃、薩摩硫黄島付近で有感地震が多発し、島民は眠れぬ日々を過ごしていた。地震は鳴動を伴い、島内では崖崩れが発生するなどの被害も出たが、震源が硫黄島付近であること以外に情報はなく、原因がわからぬまま時が過ぎていった。 9月14日から17日にかけて地震活動が非常に激しくなったことから、18日午前2時には600名あまりの島民が複数の救助船に分乗し、翌朝まで一時的に島外に避難する事態にまで発展した。19日の鹿児島朝日新聞(現在の南日本新聞)には「硫黄島住民全部引揚願出 縣も處置に迷ふ」とあり、行政も困惑していた様子が読み取れる。 当初は薩摩硫黄島の東側に聳え立ち常時活発に噴煙を上げている硫黄岳の噴火が懸念された。しかし硫黄島東方で海水の沸騰や懸濁、そして大量の軽石が浮遊している様子が確認されたことから、海底噴火が起きているらしいことがしだいに明らかになった。 9月20日には海上から激しく白煙が上がっているとの報が伝えられると、一部の島民は津波を恐れて強い風雨にもかかわらず西側の台地上に避難し、夜を徹して状況を見守った。ちなみにこの風雨は翌21日に京阪神地方を中心に死者行方不明者約3000人の大災害を引き起こした室戸台風によるもので、奇しくもこの時、火山噴火と台風が重なったのだ。 9月23日の鹿児島朝日新聞は「黒煙天に岩石を噴き 海中に火柱が立つ」、「海底噴火のため硫黄島は危険を免る 物凄い附近の光景」といった見出しで噴火の様子を伝えた。9月18日以降、大量の軽石の流出と同期するように有感地震の数は急速に減少していった。また、硫黄岳から離れた場所での海底噴火だったことから、「但し 硫黄島は人心安定」という記述も見られ、島民はしだいに平静を取り戻していったようだ。 10月になると噴火地点での噴煙の発生や軽石の浮遊がより顕著になり、薩摩硫黄島の東岸や主要港の長浜港に大量の軽石が押し寄せ、島民は船を出すこともままならなくなった。降灰や火山ガスにより農作物は枯れ、生活に大きな支障をきたすようにもなっていた。 新島の誕生 このような噴火活動が継続した後の1934年12月初旬、硫黄島東方2km場所でついに新島が出現した。その後、断続的な噴火により新島は拡大と縮小を繰り返しながら成長したものの、12月末には爆発により一旦消滅してしまう。 しかし、年が明けた1935年1月中旬からの活動により、大量の溶岩が流出して新島は一気に成長し、永続的な島の誕生に至ったのだ。溶岩流出は3月まで続いたが、4月には沈静化が確認され、約半年間の活動が終了した。 この噴火は水深約300mから始まり、最終的に新島は東西530m、南北270m、高さ55mの大きさにまで成長した。 【写真】 昭和硫黄島・空中写真1946噴火から10年ほど経った1946年頃の昭和硫黄島の空中写真。左手の岸が薩摩硫黄島 photo by Geospatial Information Authority of Japan 噴火の経緯や新島形成に関する記録は、当時現地に長く滞在した田中館秀三(たなかだて・ひでぞう。東北帝国大学、日本物理学の祖・田中館愛橘[あいきつ]の養子)によるところが大きい。田中館は噴火の推移だけでなく現象を詳細に記載し、多くの貴重なデータを残した。 例えば新島出現前の表面現象について「鳴動は雷音を以つて終れば約五秒の間隙をへだて黒煙射るが如く突如として火口上に出現し、次に花キャベツの如く広がりて白煙と交はり、風に従い傾き去る、……煙柱を見るに、黒煙噴出時に相当する部分は特に竹の節の如く太くなれり。」のように独特の比喩を使い表現した。 1986年・福徳岡ノ場の噴火との共通点 田中館による記載とよく似た表現は、1986年の福徳岡ノ場の噴火の観察記録に見ることができる。「まず黒い水柱が噴き上がる。黒い水柱の噴出が衰え水面に落下すると、大量に発生した水蒸気が白煙となって水柱に取って変わる。」これは東京工業大学の小坂丈予(おさか・じょうよ)教授が福徳岡ノ場での爆発現象を観察した際の記述である。 これら二人の記載は、まさに浅海でのマグマ水蒸気爆発により、黒色のジェットを伴い激しく飛散する噴出物や水蒸気に富む白色噴煙が発達する様子を記述したものと解釈でき、マグマ水蒸気爆発に伴うコックス・テイル・ジェット(爆発に伴い、火砕物を含む黒色噴煙が鶏の尾のようにジェット状に噴き出す現象)と考えられる。昭和硫黄島では福徳岡ノ場と同様のマグマ水蒸気爆発が発生していたのだ。 海底噴火期には大量の漂流軽石が発生したが、軽石の大きさは最大で小型船サイズ( 30×6×4m)に達し、灼熱した軽石内部に海水が浸入すると水蒸気が急激に発生し、熱水を噴き上げたようだ。長浜港に打ち上げられた軽石の中には最大7mに達するものも含まれていた。 軽石がしだいに冷やされて水蒸気の放出がなくなると海中に沈んだとの記載があることから、周辺の海底には大量の軽石が沈積したと考えられている。 1980年代に行われた海底調査では、昭和硫黄島噴火によるものと思われる巨大軽石群が実際に海底を覆っている様子が確認されている。 近年の西之島や福徳岡ノ場噴火を超える漂流軽石の噴出量 漂流軽石がどの程度遠方まで拡散したかははっきりしないが、周辺の黒島、種子島、屋久島、口永良部島(くちのえらぶじま)だけでなく、大隅海峡を越えて宮崎県都井岬から高知県は室戸岬方面にまで及んだようだ。 漂流軽石の体積については不確かな部分も多いが、地形変化や地盤変動をもとにすると、この噴火のマグマ噴出量は0.37kmに達したと推定されている。これは昭和期以降で最大規模の噴火で、1990年代の雲仙普賢岳、近年の西之島や福徳岡ノ場噴火の噴出量をも超える。 このように昭和硫黄島は、新火山島の誕生、漂流軽石の発生、マグマ水蒸気爆発など海域噴火に特有のさまざまな現象を伴った。まさに西之島や福徳岡ノ場の噴火の特徴を併せ持ったような活動により形成されたのだ。 【写真】 2013年時の昭和硫黄島2013年時の昭和硫黄島 photo by Fukashi Maeno * * * 1934〜35年の噴火で誕生した火山新島「昭和硫黄島」。島の状況は、現在、どうなっているのでしょうか。 次回は、昭和硫黄島に焦点を当てて、著者自身が行った上陸調査も踏まえて検証してみます。また、住民居住地域近傍での火山噴火におけるリスクや注意点など、防災の視点と、研究・調査の果たす役割についても考えてみます。 |
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