[1977_03_25_01]論文 むつ小川原の巨大開発 小杉毅(※)(関西大学学術リポジトリ1977年3月25日)
 
参照元
論文 むつ小川原の巨大開発 小杉毅(※)

 04:00
 (※)小杉毅(1977)「むつ小川原の巨大開発」関西大学経済論集,26 巻6号,PP.25〜67
   論文

   むつ小川原の巨大開発

   小杉毅

 1 巨大工業開発の歴史的背景

 昭和35年末の「国民所得倍増計画」の策定以来, わが国の産業は鉄鋼,石油,化学,電力,輸送機械などの重化学工業を中心に,世界屈指の高度成長を遂げてきた。そしてこの高度成長期における工業立地は,国際貿易すなわち海外原料の輸入と工業製品の輸出の拡大を背景に,もともとわが国工業の地理的分布の特徴をなしていた臨海地指向性を一層強め,太平洋ベルト地帯への工業の集積・集中を以前にも増して顕著なものにした。太平洋ベルト地帯内部においても, (1)首都圏の全国的比重が著しく高くなったことや, (2)西日本工業地帯の二大拠点をなしていた阪神と北九州の比重が著しく低下したこと, (3)京浜,中京,阪神,北九州の既成大工業地帯の比重低下とこれに代る周辺地域の工業化が急速に進んで,既成工業地域の外延的拡大がもたらされたこと,など工業の地域的構成に大きな変化が現われているが,なんといっても大きな特徴は,工業の集積・集中の進んだ太平洋ベルト地帯と工業化の遅れている日本列島の南北両地域(北海道,東北,南四国,西南九州)および日本海沿岸の諸地域が,経済的諸力の比較において著しいコントラストを現出していることである 1)。

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 1)野原敏雄・森滝健一郎編『戦後日本資本主義の地城構造」(汐文社) 66ページ参照。
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 例えば太平洋ベルト地帯へは工業出荷額の約80%, 人口の約75%が集中し,なかでも原料資源を海外に依存する鉄鋼,石油,化学などの基幹産業部門の大規模工場やコンビナートはそのほとんどが臨海部へ集中的立地を示しており,相対的用地不足と地価の高騰,交通・輸送問題の逼迫,各種の産業公害など,産業の過度集積と過密都市の弊害を惹き起している。いっぽう,列島両端の後進地域や日本海沿岸の諸地域では,工業化の停滞や農政の変転などに起因する地方財政のひずみや住民家計の破綻が進展し,また深刻な過疎現象が生ずるなど太平洋ベルト地帯とのあいだに著しい地域格差が表面化するにいたった。
 こうした状況の下でわが国の工業は,昭和43年頃より,海外へ工場進出を図る海外立地と国内の後進地域に大規模工業基地を建設しようとする遠隔地立地の二つの立地動向を示してくる 2)。海外立地の問題は割愛するとして,わが国の工業,なかんずく基幹資源型の重化学工業が国内の遠隔地を指向するのは,一つには既成工業地帯およびその周辺地域における「公害反対=工場進出反対」を叫ぶ住民運動を回避するためでもあるが,主たる要因は生産規模の巨大化に対応する広大な工業用地を確保することであった。わが国で臨海性装置工業と呼ばれる基礎的素材部門の生産単位の巨大化は,スケール・メリットを追求する激しい国際競争を背景に,コンビナート方式による大規模な工業基地の開発を要求しており, したがってこれに必要な広い工業用地,豊富な工業用水,大型港湾の存在(開発可能性)を必要不可欠とする厳しい立地条件を満たすには,国内の遠隔地に立地を求めることが巨大資本にとって最も経済合理的であったからである。
 ちなみに,国土総合開発審議会の討議資料によると,今後遠隔地に建設する大規模工業基地の前提条件として,次の点が指摘されている 3)。

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 2) 日本工業立地センター海外立地研究グループ「海外立地は可能か----.脱日本”立地=受けザラ機能強める東南アジア諸国----」(『東洋経済臨時増刊」 No. 3751, 昭和48年7月26日,地域開発特集号) 52〜64ページ。
 3) 同資料は超大型工業基地の構想としておよそ次のように述べている。「生産規模の巨大化,生産施設の大型化,既成大集積地におけるスクラップ化の進展に対処するために,新たに数万ヘクタールの用地を確保し,……新規立地点は鉄鋼 2〜3か所,石油基地 4〜6か所,石油化学 4〜6か所を予定し,集中的におこなう。工業基地の一つ。
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 (1) 大規模であること。用地面積 1.5万ヘクタール,工業出荷額 3〜4兆円,関連人口 80万人(鹿島臨海工業地帯は工業用地 3,300ヘクタール, 工業出荷額 1.4兆円)。
 (2) 臨海性で 30万トン級の船舶の入港可能な港湾を有すること。
 (3) コンビナートのスケール・メリットの追求により生産の効率化をはかり,最新鋭の工業生産技術を採用すること。
 (4) 公害のない人間性豊かな生活環境を保持すること。

 地域住民の公害反対運動を回避するために付け加えられた第4点を別にしても,第 1, 2, 3点はいずれも経済効率を重視する私的資本の要求をそのまま代弁したものであり,これまでの工業基地の数倍にのぽる大規模開発を企図していることが明らかである。
 しかし従前規模の工業開発ならともかく,これほど大規模な工業開発をおこなうとすれば,既成大工業地帯はもとよりその周辺地域を含めた太平洋ベルト地帯全域においてさえ,工業用地を確保することは容易でない。仮に第1表で示した「新全総」の検討資料で指摘している伊勢湾,播磨灘,周防灘,遠州灘の立地条件を検討しても,用地面積が狭い,埋立水深の関係で造成費が高くつく,工業用水の確保が困難であるなど問題が多く,そのうえ各地域とも公害発生地区をかかえているために,工業開発に対する地元の姿勢は,住民感情はもとより自治体当局においてすら非常に厳しいものになっている。こうして,これまで立地条件が悪いという理由で工業開発から取り残されてきた日本列島の南北両端の遠隔地が,政府や私的資本によって見直され大規模工業開発の候補地として脚光を浴びるにいたったのである。
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 具体例を示すと次のとおりである。
 1. 用 地 14,350ha
 2. 労働力 183,000人 ( 人口 約80万人)
 3. 港湾貨物扱い量 7,800万トンおよび 1億1,200万kl
 4. 投資額(土地・港湾建設費等をのぞく) 2兆7,700億円
 5. 用水 130万〜140万トン/日
 6. 出荷 額 3兆6,000億円
 7. 公共事業費 1兆1,040億円」。
 (経済企画庁総合開発局編「資料新全国総合開発計画』昭和46年4月, 148-149ページ)。
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 そして昭和44年5月に閣議決定をみた「新全国総合開発計画」の策定過程において,苫小牧東部,むつ小川原,秋田湾,西瀬戸(周防灘),志布志湾の 5地区が大規模工業開発の有力候補地としてリスト・アップされ, 「新全総」の二番煎じといわれる「日本列島改造論」においてはさらに積極的な開発姿勢が示された。候補地の選定だけでなく,開発方式もまた従来の工業開発の支配的形態であった個別資本ないし企業集団の枠を越えて,私的資本,政府,地方公共団体の共同参加による官民一体の開発体制,すなわち第3セクク一方式並びにトロイカ方式と呼ばれる新しい方法が具体化している。
 本稿で取り上げた青森県のむつ小川原地区は,北海道の苫小牧東部地区とともに遠隔地立地の典型であり,大規模工業開発の最有力候補地になっているが,ここではすでに工業基地の用地買収がほとんど終っており,土地を買却した移転農民を収用する新市街地の建設も進んでいる。しかし大規模開発の初期段階にあたる用地取得においてさえ,土地投機や住民対策などをめぐって地元の意見が二分され,巨大開発のあり方に大きな問題を投げかけている。以下むつ小川原地区の巨大工業開発を (1)開発計画の推移と概要, (2)開発方式, (3)用地取得の3点から検討してみよう。

 2 開発構想の推移と基本計画の概要

 開発構想の推移

 むつ小川原地区の大規模開発構想が現実的問題として具体化してくるのは,「新全国総合開発計画」の閣議決定をみた昭和44年前後のことである。もちろんこれまでに工業開発の構想がなかったわけではない。戦前は別として戦後も昭和30年代に入ると,地元関係者を中心に工業開発の動きが現われ,昭和32年には小川原湖を商工業港として開きここから八戸港に至る海岸線を一大工業地域に開発するという構想が打ち出され,同 38年の「八戸新産都市計画」の立案過程においては小川原湖の開発(港湾および工業用貯水池)と鉄鋼, 石油化学などのコンビナートの配置構想が検討されている。また昭和41年には「新全総」の立案準備が始まるなど,むつ小川原地区の開発構想が次第に現実性をもった話題になってきた。しかし,この時点では中央官庁においても開発構想に具体性がなく地元関係者のあいだでも時期尚早論が大勢を占めるなど調査段階にあったといえる。
 ところがその後,高度成長の展開過程で水島,大分,鹿島などにおいて大型コンビナートの建設が相次いでおこなわれ,生産規模の大型化が工業立地の趨勢になりつつあるとき,昭和43年12月主務官庁である通産省が『工業開発の構想(試案)』を発表し,その中でむつ湾および小川原湖一帯の大規模工業開発を積極的に取り上げたのである。同試案によると, 「……昭和60年には大規模な港湾整備の可能性を蔵し,広大な用地,豊富な用水に恵まれた陸奥湾,小川原湖周辺に大規模臨海工業基地が成立することを想定しており」,早ければ「昭和50年以降に陸奥湾,小川原湖付近で大規模工業開発が実施されることが期待される」4)と述べて, この地域一帯が近い将来における大規模工業開発の最有力候補地であることを示唆している。
 そして翌44年5月には『新全国総合開発計画』が閣議決定をみるが,このなかで政府は, 「小川原工業港の建設等の総合的な産業基盤の整備により, 陸奥湾,小川原湖周辺ならびに八戸,久慈一帯に巨大臨海コンビナートの形成を図る」 5)という方針を明確に打ち出し, さらに大規模工業開発プロジェクトの具体的内容については同計画の「資料編」において次のような一段と詳しい検討資料が紹介されている。「工業の生産規模の大型化に対応する地域として陸奥湾,小川原湖周辺,ならびに八戸,久慈一帯は日本に残された最大のフロンティアの一つである。陸奥湾は天然の良港で50万 D/W規模のタンカーが入港でき,原油備蓄基地 (CTS), 原子力船母港など広範な活用が期待され,また小川原湖は淡水湖であり,その面積は65平方キロメートル,水面の海抜高度 1.5メートル,最大深度25メートルで,豊富な工業用水資源を包蔵している。これらの地域に石油化学等基幹工業の立地誘導を積極的に行ない,大工業地帯を形成する」 6)。こうしてむつ小川原地区の開発構想は政府の産業立地政策および国土政策の重点項目として取り上げられ,従前構想の開発規模を逢かに凌ぐ巨大開発が国家的大事業として推進されることになったのである。

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 4)通商産業省『工業開発の構想(試案)』(昭和43年12月) 51〜52ページ。
 5)経済企画庁編『新全国総合開発計画』(昭和44年5月) 54ページ。
 6)経済企画庁総合開発局編『資料新全国総合開発計画』(昭和46年4月) 181ページ。
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 いっぽう地元青森県では, 「新全総」の発表される一年前の昭和43年7月に日本工業立地センターに対して,むつ小川原湖地域の工業開発の可能性について調査を依頼している。そしてその調査結果である「陸奥湾小川原湖大規模工業開発調査報告』(同44年3月発表)が出されると,県企画部開発課はこの報告書に基づいて同44年8月,「陸奥湾小川原湖地域の開発」というパンフレットを作成して,県民の前にはじめて具体的な開発構想を公表するとともに,関係官庁および巨大企業集団にも工場誘致用の宣伝バンフレットとして配布している。日本工業立地センクーの調査報告は進出を意図する関係業界の関心を強く集め,とくに不動産業界では「新全総」の公表されるかなり以前から開発予定地の争奪戦を惹き起したのである。

 開発基本計画の概要

 前述した『陸奥湾小川原湖地域の開発」が公表されて以来,昭和46年8月に開発予定地の土地取得に関する住民対策大綱(一次案)が発表されるまでは,開発構想の内容に大きな変化はなかった。しかし住民対策大網が公表されると地元関係住民のあいだに強い反発が起り,開発構想の内容は目まぐるしく変化することになる。すなわち翌9月には住民の激しい反対運動を回避するために「一次案」を大幅に変更した「二次案」が示され,更に翌47年6月には『むつ小川原開発第一次基本計画』, 同49年8月には『むつ小川原開発第二次基本計画の骨子』が相次いで発表されたのである。しかし,こうした一連の開発構想の推移のなかで,開発規模の縮小や立地想定業種の大幅な変更はおこなわれてきたが,工業開発の性格と基本方針は何ら変っていない。そこで,開発計画の推移を追いながら,むつ小川原地区における大規模工業開発の内容と性格を検討しよう。
 青森県の当初の開発構想は, 「鉄鋼および, CTS基地を含む石油精製,石油化学等の臨海性装置工業を主体とし,さらにアルミニウム,銅,鉛,亜鉛等の非鉄金属,天然ガス工業を含む重化学工業,鋼造船,自動車,電気機械工業などの大型機械工業およびそれらの関連工業を配置する。このため,原子力発電の開発を推進するとともに,エネルギー基地と基幹資源型工業を中核とした超大型コンビナートを核として,生産機能----流通機能----生活機能等について調和のとれた都市構想を実現しようとするものである」 7) という開発方針に明確に示されているように,下北半島頸部に鉄鋼,石油精製,石油化学を中核とする非鉄金属,化学,機械,原子力発電などの超大型複合コンビナートを建設し,北日本における中核的工業基地の実現を意図するものであった。
 工業基地の開発規模は,総面積21,000ヘクタール,総投資額約10兆円,工業従業者数約12万人,工業出荷額約5兆円を想定しており,各立地業種の個別的生産規模も第2表に示したごとく,わが国の既存新鋭工場の数倍という巨大なものであった。工業基地の工場配置は,工業原料を超大型船舶によって陸奥湾から搬入し,下北半島頸部を東へ横断移送しながら製品化し,太平洋へ積出しするという方向で,およそ次のような青写真を描いている(第1図参照) 8)。

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 7) 青森県むつ小川原開発室『むつ小川原地域開発構想の概要」 16ページ。
 8) 同「前掲書」 17〜19ベージ。デーリー東北新聞社「北奥羽の山河----むつ小川原の巨大開発----」 (1972) 1~80ページ参照。
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 (1)小川原湖東部の太平洋沿岸には,粗鋼年産2000万トンの銑鋼一貫工場を中心に,鋼材並びに大型機械などの関連工場を集めた鉄鋼基地を配置する。(2)陸奥湾沿岸に建設する CTS基地を利用して,小川原湖北方の尾駁沼・鷹架沼周辺に日産処理能力150万バーレルの石油精製工場,エチレン換算で年産260万トンの石油化学工場,および火力発電所等を結ぶ石油化学コンビナートを配置する。(3)太平洋沿岸北部(東通村)に原子力発電2000万kWの原子カセンターを建設してその周辺に銅,鉛,亜鉛などの非鉄金属工場を配置するほか,小川原湖北部にも火力発電所 (1000万kW)を設けてアルミニウム工場を配置する。(4)陸奥湾沿岸には沖合い数キロの地点に大型タンカー (30万トン)用シーバースと貯油能力2000万klのCTS基地を建設し,原料輸入のための広域港湾として整備を図るほか,造船工業など大型機械工業を配置する。(5)小川原湖周辺の臨海部には堀込式の大規模港湾を築造し, ここに航路水深 22メートル (20万トン級船舶入港可能),泊地面積2300ヘクタール,岸壁延長 2万メートルの小川原工業港を建設する。(6)工業用水は小川原湖および奥入瀬川水系を開発して日量250万トン(現状では日量 120万トン取水可能)を確保する。(7)下北半島頸部の内陸丘陵地に人口30万人の新都市を建設する。
 この開発構想は,昭和46年8月開発面積の縮小や造船工業などの一部業種に若干の変更を加えて開発計画(一次案)として発表された。ところが工業開発規模が,主要業種だけをとってみても,現在わが国最大の工業基地である鹿島臨海工業地帯に比べて,鉄鋼は2倍,石油精製2.5倍,石油化学2.6倍,土地利用面積7倍という厖大なものであったことや,用地取得のために必要な立ち退き戸数が三沢,野辺地,六ケ所村の三市町村で37集落, 2,162世帯, 11,204名にのぼるという,わが国工業開発史上例のない巨大開発であることが明らかになったために,地元関係住民の戸惑いと反発はきわめて大きかった。こうした厳しい住民感情と同年8月以来の「ドル・ショック」の影響による経済的動揺のなかで,翌9月一次案を大幅に縮小した二次案が提示され,これが若干の手直しの後「第一次基本計画」(同47年6月)として発表されたのである。
 二次案(第一次基本計画)の概要は第3表に示したように, (1)鉄鋼・同関連,アルミニウム・同関連,非鉄金属,大型機械工業, CTSの立地を当面の開発計画から削除して石油産業の立地を先行させる, (2)開発区城面積を17,500ヘクタールから7,900ヘクタールへ大幅に縮小する, (3)石油産業の生産規模を拡大し,石油精製は日産150万バーレルから200万バーレルへ,石油化学はエチレン年産260万トンから400万トンへ,それぞれ大幅に引き上げるというものであった。鉄鋼,非鉄金属, CTSなどの立地延期と開発面積の縮小は,一般にアメリカ政府の輸入課徴金政策や円切り上げの影響による関係業界の投資動向を反映したものと受け取られているが,直接的には当面の開発規模を縮小して開発反対住民の反発をかわすことを狙ったものである。事実住民の立ち退き規模が,一次案に比較して集落数で3分の1,世帯数で6分の1,人口規模で6分の1にそれぞれ大幅に縮小され, このことが以後の開発反対運動に動揺をあたえ,条件付開発斗争の動きを活発にする役割を果したことによくあらわれている。



 また石油産業の誘致を先行させそのうえ生産規模拡大の方針を示したことは当面の開発規模の縮小によって住民の反発をかわし,公害型産業と呼ばれる立地困難な石油産業をまず誘致し,後続の他業種の工場立地を容易に誘導しようとする意図のあることをはっきりと示している。この点は、開発の手順を変更した「第二次基本計画の骨子」(昭和49年8月発表)をみると一層明らかである。



 「第二次基本計画の骨子」によれば,開発業種を当面,石油関連産業,すなわち石油精製,石油化学,火力発電の3業種にしぽり,しかも工場立地は数期にわけて段階的におこなうという方針が示されている。工業開発地区は第一次基本計画に比べて大きな変更はなく,六ケ所村から三沢市北部にいたる臨海地域約5000ヘクタールを予定し,そのうち石油精製,石油化学等の工場用地が約2500ヘクタール,港湾,岸壁などの公共・専用用地が約 450ヘクタール,地区内の幹線道路用地(幅50〜100メートル)が約 150ヘクタール, 他の用地は緑地,二次幹線道路,パイプラインなどの施設に利用されることになっている。
 工場配置は,第一期計画としてさしあたり石油精製(弥栄平地区)が日産50万バーレル, 石油化学(麿架沼南岸・沖付地区)がエチレン換算で年産 80万トン,火力発電(同上)が出力60万 kW2基という石油化学コンビナートを予定している。工業立地の規模は,開発着手時点においては大幅に縮小されたことになる。しかし,これは全体計画の縮小を意味するものではなく,将来における立地規模の段階的拡大の方便にすぎない。第一期計画の立地規模が低く押えられているのは,開発地区住民の激しい抵抗のなかで,工場立地の突破口を開くための,開発当局による政策的配慮である。このことは,『同骨子』に明記された,「立地規模は環境アセスメントに基づいて段階的に拡大する」,とか「段階的立地を配慮しつつ工業開発地区全域を対象とする分散型の工場配置を至こなう」という字句にはっきりとあらわれている。
 こうして,開発予定スケジュールは,昭和50年3月までに第二次基本計画の最終案を策定し, 同52年までには土地造成に着手, 同54年には工場建設を開始,同57年頃には一部操業開始ということになっており,不況の好転とともに事業を開始する見通しである。工業開発にともなう立ち退き住民の移転先としてすでに新市街地A住区の建設工事が開始されている。
   (後略)

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